カリフォルニアと自由

人はいつまでも自由なわけではないだろう,と思う。

これはおかしな物言いだ。それではまるで人はすでにあるとき自由であるかのように語ってしまっている。

だげど,自由な人などにはめったにお会いできない。

ソクラテスは自由な人だったようだ。彼は戦場の真っただ中でさえ思考に入り込んで立ち止まって動かなかったと伝えられている。(どこで誰がそう伝えているかは,忘れた。気になる人はAIに聞いてくれ。)

私は自由になりたかった。その思いは10歳ぐらいで明確に抱いていた。片道約3kmの通学路を帰りながら,毎日,そのことを考えていた。

だが,母に言わせると,私はおむつが取れる前から,自由を好んだ。言うことを聞かないで,自分のしたいところでプーするのだ。

とすると,私の自由になりたいという思いは,本能だ。それでは自由などではまったくないのではないか。選択的ではないのだから。

本能のことをストアは「自然」と呼んだ。それをストアは「理性」ともとらえた。自然は決まりなのだ。本能的に自由であるとは,決まりのなかで決まりに従うことだ。従いながら自由だというのだ。自己矛盾だ。

違うだろう。自由とはそのようなものなのだ。自由はカオスではない。カオスは状態についての描写であって,行為についてのものではない。自由とは行為についての描写だ。

人間が自然の枠内の存在であるという条件があって,そのうえで初めて自由が成り立つ。

自然の定め,ストア的に言うなら「自然的理性」のみに従うことが「自由」なのだ。(ストアはあまり「自由」という言葉では語らない。)

カリフォルニアは自由の国だ。ボストンとは違う。と今日思った。ボストンに自由がないというのではない,念のため。



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