主観的な物語と無銘性

ラジオを捨てた今でもどこかから流れてくる昔なじみの番組には聞き耳を立ててしまう。今朝の再放送,NHKのクラシック・カフェではある詩人の生涯について触れられていた。最後は「天に召された」と締めくくっった。

これは主観的な物言いである。(他にも主観的な表現はあった。)ところが,それを読み上げているアナウンサーの名前は知らされているが,そのスクリプトを書いた人物の名前は知らされていない。

公共放送というわけのわからない言い訳で,他のどの放送局にも許されていない強制課金制度,つまり実質的な税金で賄われている放送局が,誰の言葉かもわからない物語を流す。

客観的・中立的な事実伝達であれば,個人ではなく,組織としての発言として流される方が信ぴょう性が上がる。

ところが,インターネットの発達によって,メディアのあり方が変わった。客観的・中立的なスタイルの物語は,人々から注目されにくくなっている。それに対する対応なのだろうが,主観的な物語はパーソナルなものだ。それは匿名であっても,誰かの発言である。無銘では,その物語の面白さはそがれる。それが,「公共」的に放送されるとなると,隠された意図や無責任さの香りがする。

日本最大のメディアのこうしたことに対する感性が揺らいでいる。私たちは新しいメディアの中で「公共」の物語を作り,受けていく新しい仕方を模索している。クラシック・カフェの挑戦は,そのスピリッツを褒めたい。が,失敗しているように私には思われる。



投稿日

カテゴリー:

投稿者:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です