誰なのか,と問うている。何者なのか,と尋ねている。
自慢できることはたくさんあるが,自慢できないこともたくさんあるので,自慢はしない。もっとも自慢をするとはよいことで,人は自分のことを大いに褒めるのがよい。卑下するよりも,誇りを持とう。
以前,何かあるとすぐに「すみません」と謝る人がいた。何かを頼みにきて「すみません」。結果報告に来て「すみません」。お世話になってる気持ち,感謝している気持ちをぜんぶ「すみません」と表現してた。だから私は言った。「ありがとう」と言えばいいんだよと。
アメリカで暮らしだしてすぐに気が付いたのは,Thank youと言うと,かならずYou’re welcomeと返してくることだった。私が暮らしたのはボストン界隈だったので,本当にそう言い返してきた。
まだ生活に慣れていない私が,thank youと言われて,黙ってニコニコしていると,thank youを繰り返す。You’re welcomeを聞くまで繰り返す。
カリフォルニアに行ったら,You’re welcomeと言う人は少なかった。何か別のことをそれぞれが言う。カリフォルニアには表現の自由がある。カリフォルニアの自由とニュー・イングランドの自由は違う。
「すみません」を繰り返す人は,そういう心性を否定してる人から嫌われて,どこかに追い出された。自己も他者も肯定しようとしているその人を私は好きだが,自分が特定のタイプの人を追い出し続けていることからどうして目を背けているのかとずっと疑問に思っている。このことはきっといつまでも伝えないだろうが。
自分についても少しのことは知っている。私は極度の知りたがりだ。「無知の知」というのは,ソクラテス以上の賢者はいないというデルフォイの神託をソクラテスが友から伝え聞き,その真意を知るべく知の探究に出かけて行きついた答えのはずだ。
私もソクラテスのように知りたがりだし,変人だが,ソクラテスほど変人ではないと思う。アリストテレスとは仲良しだし,セネカは小ばかにしながらよく一緒に酒を飲んでいるが,ソクラテスとは仲良くなれそうな気がしない。
知りたがりは知らないことを知っている。
だから偉そうに人に他人の欠点を指摘したりしないし,自分の自慢などはしない。スペックがどうのは言わない。スペックが気になる程度の人間のスペックはたかが知れている。とすごい上から目線で自慢してみた。
これは冗談で,言いたいのはスペックが自分の証明にならないと感じているということだ。どこそこに所属してますとか,何々を獲得していますとか,あれこれを持っていますとか,そういうことでは自分が何かを表現できない。
どうしたら自分を表現できるのだろう。ここにいて,これを書いているそれだけの存在の自分をどうしたら表現して,理解してもらえるのだろう。
誰なのか,と問うている。何者なのか,と尋ねている。夢を見ているのだ。答えがあると期待しているのだ。
コメントを残す