隠遁 / Retreat

どこかの里や海辺や山あいの隠れ家に隠遁したがる人は多い。君も似たようなことを常々願っているね。でも,それはまったくもって凡庸な者の証というものだ。なぜならいつでも自分のなかに隠居できるのだから。

Marcus, Ad se ipsum, Lib.IV.

マルクス・アウレリウス(以下,マルクス)の『自省録』と日本語ではたいてい訳されている書き物は,ラテン語ではAd se ipsumと呼ばれている。マルクスはギリシア語で書いたし,タイトルをつけていたわけではないので,ラテン語のタイトルになにがしかのAuthenticityがあるわけではない。ただ,私は気に入っている。

Ad se ipsumというのは,日本語に訳すと「自分自身へ」となる。書き手の書いている宛先が自分自身であるということだ。だから,この文中の「君」もマルクス自身のことを指している。

世間の喧騒から離れて,静かに落ち着きたいと願うとき,「どこかに行きたい」と思うことはごく普通のことだ。ところが,マルクスはそう願う自分を𠮟責する。

「愚か者よ。なぜどこかに逃げ出せば,静かに過ごせるなどと安易に考えるのか。そんなことをせずとも,どこに居ようとも,静かに自分の内側に心と目と耳を傾ければ,そこには静寂があるし,そうすることがいつでもできるのに。」と。

マルクスは自分を叱責するときに,「それは凡庸な者と同じだ」と述べる。あぁ,さすがに哲学者の皇帝様はご立派で,世間様のことを見下していたのですね,と解釈したら,それは間違っている。

マルクスは自分自身に書いている。マルクスは自分がまだまだ精進の足りない者であると,自分をいさめているのだ。ここに平穏がある,なのにそれを理解せずにいる自分が,自然の理をまだ十分に理解し,実践できていないことを嘆いているのだ。有徳者になりたいのに,なれていないことを確認しているのだ。



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